茶畑の飛行場
次世代に響く鐘の音・大井海軍航空隊(広報牧之原:2013年8月)
平和の鐘:牧之原コミュニーセンター
全国有数の大茶園が広がる牧之原台地。 ここに旧日本海軍の飛行場があったことをご存じですか?
大井海軍航空隊記念碑(旧隊門)
昭和20年8月15日の終戦から戦争体験者は年々減少。 親から子、子から孫へ、さらには地域へ、戦争を語り継ぐ人や機会も減ってきています。 大井海軍航空隊の歴史や当時を振り返り、戦争の悲惨さと平和の尊さについて考えます。 戦争を知らない私たちが、いつまでも次の世代に伝えていけるように。 茶畑が飛行場に牧之原台地に大日本帝国軍(旧日本海軍)の飛行場が計画されたのは、今から約70年前のこと。 昭和14年、第四次海軍軍備充実計画により、海軍航空隊を14隊から75隊に増やすことを決定し、牧之原の地も候補地の一つとして挙げられた。
大井海軍航空隊航空写真(昭和17年頃)
写真中央の黒い部分を航空母艦に見立てて、着陸訓練を行っていた。 昭和15年3月26日、牧之原尋常小学校(当時)に、飛行場予定地の小笠郡六郷村、河城村(菊川市)、萩間村・勝間田村(牧之原市)、の村長と地主、農民ら約260人が集められ、海軍横須賀司令部大佐から「海軍航空隊の基地を作るので、軍用地として約300町歩(300ha)を買い上げる。 軍用地内の農家は立ち退くこと」と一方的に通告された。 (同校も対象になり、現在の場所に移転) 同時に、滑走路から周辺400m内の建物撤去なども指示された。 当時、計画地は明治初めに旧幕府の武士などが入植し苦労して開墾した茶園が広がり、住民らは飛行場の建設に反対。 後日、農民約100人が県知事に中止を訴えたが、軍の計画はそのまま実行され、建設予定地内の立ち退き数は約200戸にも及んだ。 大井航空隊の3年 昭和17年4月1日、長さ1500m、幅80mの滑走路とともに海軍第13連合航空隊。 予科練習生(飛行する予備知識を学ぶ訓練生)などの飛行訓練、通信訓練、偵察要員を育成する練習航空隊だった。
電探講堂跡
飛行科、整備科、工作科、会計科、主計科、内務科、運用科、通信科などから組織され、多い時には2500人から3000人の隊員がいた。 飛行機は当初、九十式機上作業練習機が主に使用され、昭和19年12月頃からは「白菊」が主力機となった。 昭和20年に入り、戦局が著しく悪化。海軍の戦力が大幅に減少したことなどから2月には飛行訓練が中止され、ついに3月、特効(機体に爆弾を積み、操縦者が自爆前提で目標に体当たりする特別攻撃)の命令が下り、飛行機の多くが特攻隊に編入され、沖縄決戦に備えて各地の基地に向かっていった。 白菊には、爆弾が装備され、教官など選抜された隊員により特効訓練が開始。 当時昼間に行われていた訓練も、途中から夕方や夜間に行われた。
白菊
白菊のエンジン
白菊の車輪
左にある棒は、海軍魂注入棒です。 どう使われたのでしょうか? 昭和20年7月28日ごろ、同隊は米軍の飛行機であるグラマンの波状攻撃により、司令部や倉庫、格納庫などが被害を受け、1機を撃墜したという記録が残っている。 そして、同年8月15日の終戦により武装解除し、同隊も解隊。 約3000人いた人々もいつの間にか数百人しか残っていなかった。 当時の面影は今も 戦後昭和22年ごろから、基地のコンクリートは剥がされ、牧ノ原台地に元の茶畑が再び姿を現した。 同隊は僅か3年という期間でその役目を終えたが、戦後70年が経過した現在でも隊門の一部やレンガ積みの壁、防空壕の跡などが残り、当時の様子を今に伝えている。
隊壁跡
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